先日、あるレストランでクラシック奏者が演奏しているのを見てメールしてくださった方がいました。正確には「お客さんの笑い声にかき消されて何も聴こえなくて見ててかわいそうだった」という内容でした。
演奏の仕事をしているとやはり理想の環境で演奏できることばかりではなく、普通にありえることだったので「それもお仕事のうちなので、大丈夫です」とお返事しました。
音楽を愛している者として、音楽家として、だけどそれはとても辛いことです。
「自分の演奏を聴いてもらえない」ということよりも、音楽がそこらへんのゴミのように扱われているような気持ちになってしまうからです。
今年の2月のあたまに、ホテルのレセプションで演奏するお仕事がありました。
先日開催した椿サロンのカルテットライブのメンバーで、「カルテット続けようかな」と思うきっかけになった仕事でした。
モーツァルトとハイドンの弦楽四重奏曲を演奏しましたが、それこそ雑踏の中での演奏。お互いの音もよく聞こえなかったです。そのような環境で演奏することはわかっていましたが、私たちは一応それなりにリハーサルをして納得してから舞台にあがりました。
演奏した後にわたしがツイートした文章がこちらです。
今後のために、と精緻なアンサンブルが求められない場所での演奏ではあったけれど、カルテットの名曲をしっかりとリハーサルして臨んだ。雑踏の中でも、お互いの音を心で聴いて集中力のある演奏をして、疲れたけど充実感があった。お客さんにとって私たちは風景の一部でしかなかっただろうけど。
— なかじまきょうこ (@kyokocello) 2016年2月4日
なぜ、だれも聴いていない中で演奏するにもモーツァルトとハイドンをリハーサルして臨んだのか。
時代が生んだ天才たちの作品が、長い長い時間多くの人に愛されて今の時代に残っていること。その多くの作品が人間味を持っていること。そして時に「神にしか作ることが出来ないのではないか」と思うような美しさや繊細さに出会う時、畏敬の念を抱くからです。
そんな作品たちが、喧騒にかき消されて行く時の気持ちはもうあまり感じなくなってきました。作品が美しいと思うから、それが届く人たちに、この美しさを伝えたいと思っています。
上のTwitterのつぶやきを見た方から、「自分自身が自分をきちんと評価できる演奏を続けてほしいです。チェロ奏者は数知れず、でも中島杏子は一人だけ」とメッセージをいただきました。
上手に弾きたい、もっと活躍したい、と思うことはもちろんありますが、それよりも一人一人のこころに届く演奏をわたしはめざしています。