札幌もようやく春らしく気持ちの良い気候になってきました。
春は心が軽くなりますね。今年で3回目になる豊平館でのコンサートも今週末に迫ってきました。
プログラムについて少し私なりの思いを書くつもりでいましたが、今日は嗜みとしての音楽について日頃思っていることを綴ってみます。
先日、人気アイドルグループ『嵐』の札幌ツアーが開催されました。
ツアー前後の飛行機は満席、ホテルも取れず、札幌で開催されるはずだった学会などがキャンセルになったり、もはや『嵐』ツアーは社会現象。大都市の交通を麻痺させるほどの5人って一体?!と思うわけです。私も大好きです。『嵐~ARASHI』。それぞれ独自の才能があるし、番組も面白いし、歌もダンスも上手。チケットが取れれば1回くらいはライブに行ってみたいです。
しかし、『嵐』が生活の一部となっていてライブとなればどこへでも飛んでいくという感覚は私にはないので、何で『嵐』ツアーのたびにこんなことが起こるのだろう、と不思議でなりません。
アイドルってすごい。
さて、そしてクラシック音楽の話になりますが、クラシック音楽界で相当な人気を誇るスターであったとしても大都市の交通網を支配するほどの影響を与える人って私の知る限りひとりもいません。この差って何なんでしょう。クラシックは難しいから?
一言で言えば、愛好者の総数が少ないんでしょうね。
よく、「クラシックはむずかしい」「よくわからない」と言われることがあります。
確かに難解なクラシック音楽もありますが、多くの方が触れている耳障りのよい音楽もまた、クラシックだったりします。最近では、クラシック音楽をより分かりやすくやさしく解説しながらのコンサートなども主流となりつつあり、クラシックを提供する側も愛好者の裾野を広げる努力をしています。
私もカジュアルなコンサートではよく作曲家や曲についてお話したりします。
でも、最近思うのです。
クラシック音楽を難しいと思う人は、無理して聴かなくていいですよね。
ほかに楽しい音楽はたくさんあるし、音楽ではなくてもさまざまな嗜みがある時代です。
なのに、なぜクラシック音楽を生業としている私にわざわざ「難しい」と言ってくる人がいるのでしょう。無理して聴けと言っているわけでもないのに。
おそらく、どことなく「無理して聴くもの」という認識が私たち日本人にはあるのではないでしょうか。小さい頃に連れられていった演奏会。たくさんの奏者がそれぞれの音を弾いて、変わりばえしない曲を延々と聞かされる。そういうイメージがあるように思います。
でも私は、幼いころからオーケストラやバレエなどクラシックを聴いたり観たりするのがとても好きでした。だから、クラシックって好き嫌いなんだと思うんです。聴かず嫌いはもったいないと思うけど、何度聴いても眠くなるという方は、「好きじゃない」んだと思います。
ひとつ、思い当たることがあります。クラシック音楽やバレエ、歌舞伎などの古典芸能は、演じる側の技術が必要不可欠です。作品そのものの美しさを表現するためには絶対的な技術が必要なのです。だから、特に家元などの家系以外からの出が割と多い(要するに、趣味が高じた人たちが多い)分野のクラシック音楽を表現する側の技術が圧倒的に足りず、高い芸術性を表現できていない、ということがあるかもしれません。
それは、表現する側からすると過酷な長い長い旅をしているようなものです。
理想が高ければ高いほどです。センスだけではなんともならないのが、古典芸能の難しいところ。
そして、奥深さです。私は、どちらかと言えばその「奥深さ」に魅力を感じている側の演奏家です。
「音楽が好きで好きで好きでたまらない人」、「才能ありすぎるため音楽家にならざるを得ない人」、「好きで好きで好きな上に程よい才能がある人」、「職人みたいな人」、さまざまなタイプの演奏家がいますので、それぞれの演奏の違いを嗜むのもまた楽しいかもしれません。
クラシック音楽の究極を表現しているなと思う言葉が私のなかにあります。
その場の空気を支配してしまうと私が思う芸術家の言葉です。
友人がその方にアドバイスをいただく機会があったそうです。
「最近では一見華やかなものが目につきやすいですけれども、芸を極めるのにはとても地道な努力が必要です。自分にできる事とできない事を見極め、ひたすらに、その道を見つめて努力していってください」
人づてにきいた言葉ですが、私も直にアドバイスをいただいたような気持ちになりました。